ペルーニク Perník 🇨🇿

ヨーロッパの中央部に位置するチェコ共和国は、四方をドイツ、ポーランド、スロバキア、オーストリアに囲まれ、周辺国の侵略に翻弄され続けた激動の歴史を持つ国 ペルニークはそんな中にありながら、修道院でも貴族でもなく、職人ギルドと民衆が600年の長きにわたって守り続けた民族の誇りを秘めたジンジャーブレッドです。

呼称の由来は、地元で採れる麦粉や蜂蜜を合わせて作られていたハニーケーキに、スパイス「胡椒」:「ピペル」が加えられると、「胡椒味の」を表す「ペプルニー」が変化して「ペルニーク」と呼ばれるようになったそう。

代のペルニークの特徴は、中世の間主流だった木型を使った凹凸レリーフが美しいペルニーク、200年ほど前 膨張剤が加えられるようになって登場した、ふんわり食感を手に入れた代わりに扁平になり、型抜きされるようになったペルニーク、そこにアイシングで装飾が施され、工芸品のような華やかな美しさで仕上げられるペルニーク それぞれ時代を彩ったペルニークたちが今だに健在で作り続けられ、販売もされていることです。

チェコの歴史とペルニーク

10世紀初頭 チェコ人はボヘミア地方にボヘミア王国を興しました。

1347年ボヘミア王になったカレル4世(ドイツ語でカール)は、同年ローマ教皇に推されて神聖ローマ皇帝に選出されると、以後32年間 ボヘミアと神聖ローマ帝国の統治にあたります。プラハを神聖ローマ帝国の王都と定め、都市計画のもと街を拡充 今に残るプラハ城やカレル橋が造られ、カレル大学が創立されると、街の人口は4倍にも膨れ上がり、プラハは中・東欧通商網の中核をなして文化的にも繁栄し、南スラヴ諸侯から「黄金のプラハ 」と称えられる絶頂期をむかえます。

そんな中、カレル4世が他の都市に先んじてジンジャーブレッドの一大生産地となっていたニュルンベルクから大勢の熟練職人をプラハに誘致すると、一気にペルニーク作りの本格的な技とレシピが持ち込まれ、チェコにおけるペルニークの基礎が作られます。

フス戦争

カレル4世の死後 カトリック教会は国王の庇護のもと権力と富を欲いままにして腐敗が進み、さらに移住してきたドイツ系住民がチェコの民衆を支配する状況に、カレル大学の神学教授ヤン・フスが声を上げたことをきっかけに、「フス戦争」(14191436年)が始まり、以後教会と市民の対立は燻り続け、1526年にはハプスブルク家がボヘミア王位を相続 その支配は第一次世界大戦終了まで400年続いたのです。

この間ペルニーク作りはギルドおよび職人によってたくましく継承されていきます。

中世期 木型を使った凹凸レリーフが美しいペルニークが一世を風靡

美しく細緻なレリーフが浮び上がる芸術性を賞賛される域の品質で、スパイスの香りが漂う美しいペルニークは記念品や贈り物に喜ばれ、ハート型は愛の告白やプロポーズの必需品となり、スパイスの香りが魔除けや除菌効果をもつと信じられていたことから、家内安全や病気平癒の願いを託したお守りとしても重用され、戦場へ赴く兵士の無事も託されました。

南部の町チェスキー・クルムロフ で400年前のレシピのまま木型を使って作り続けられるペルニーク ↑

博物館の棚で余生を過ごす使われなくなった木型たち ↑

19 世紀 大量供給が求められ始めると、他地域同様ペルニークに一大転換期が訪れます。新生ペルニークは麦粉に蜂蜜や砂糖とスパイスそして重曹やベーキングパウダーなどの膨張剤を加えて捏ねた生地を大きく広げ伸ばし、ブリキで作られた抜き型を使って型抜きしてからオーブンで焼かれます。

円形や四角形などプレーンな形のものにはシュガークラフトやアイシングが施され、聖ニコラウスや悪魔、騎兵、赤ちゃん、動物、ハートなど 抜かれた形が意味合いを持つものには、それにちなんだクロモス(カラフルな絵が印刷された切り紙)が貼り付けられました。ペルニークはスパイスの風味はそのままに、ソフトな食感も加わって、安価な庶民の日常菓子になりました。

近年の傾向は、大きなトレイに生地を広げて焼いてから切り分ける工業生産品も登場し、ジャムを挟むアレンジも人気です。

クリスマスの時期を中心にホームメイドも盛んで、加えて特徴的なのは、手づくり生産を続けるショップが健在なこと さらに女性作家さん達により、ペルニークの表面をキャンバスに見立てて、シュガークラフトとアイシングによる美しく繊細な図案を描く技法が極められています。技術水準や芸術性の追求はとどまるところを知らない勢いで進化発展をとげ、『ペルニーク・ナ・フィギュアーキー  Pernik na figurky 』と名付けられ 材料は食用ですが、もはや長期保存の効く芳香漂う工芸作品 香りはお届けできませんが、画像をご覧ください。